沿革
当神宮のご創建は、第十代崇神天皇の御代と伝えられ、その後第五十代桓武天皇の延暦元年には、天台宗の僧と伝える光喜坊快久が、勅命によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して、勅号を「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と賜った。
また宗派が真言宗に移ったこともあり、洞内本宮の外、本堂には六観音を安置し、一時は西の高野とうたわれ、両部神道の一大道場として、盛観を極めていた。
そして明治維新とともに、権現号・寺院を廃して鵜戸神社となり、後に官幣大社鵜戸神宮にご昇格された。明治を130余年経過した今日、全国津々浦々から、日本民族の祖神誕生の聖地を訪れる参拝者は、四時絶えることなく続いている。
ご神徳
豊玉姫命が御子育児のため、両乳房をくっつけて行かれたと伝えられる「おちちいわ」は安産、育児を願う人々の信仰の拠り所である。おちちいわより滴り落ちる水でつくった「おちちあめ」などもある。
このほか、念流、陰流の剣法発祥の霊地(※)として、また漁業、航海の守護神としての信仰も篤く、様々なおまもりがある。
また、本殿前磯にある「霊石亀石」の穴の中に運玉を投げ入れ見事入ると願いが叶うといわれる。
※剣法発祥の霊地・・・足利時代に剣法の達人と謳われた相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を当神宮に於いて御神示を受け、創始した事による。
亀石と運玉
本殿前の広場から海岸を見下ろすと十二メートル先に、頭から尻尾まで約八メートルの亀石があり、その背中には六十センチ角の枡形のくぼみがあり、男性は左手で、女性は右手でお願いを込めて、亀石めがけ投げます。亀石の背中に命中すれば良し。枡形のくぼみに入ればさらに良しと伝えられています。
風習
「シャンシャン馬」
宮崎の風物詩「シャンシャン馬」の風習は、江戸時代の中期から明治の終わり頃まで行われていた。
鵜戸さん詣りは、七浦七峠と呼ばれる険しくつらい路を、花嫁を馬にのせ、花婿が手綱をとって、鵜戸神宮へ向かい、宮詣りをして家路につくという旅であった。
現在は、この風習はなくなりましたが、毎年「シャンシャン馬道中鵜戸詣り」を再現する行事や、民謡大会などが行われるなど観光行事として行われている。
「シャンシャン」とは馬の首にかけられた鈴がなる音を表しているといわれている。
鵜戸さん参りは春三月よ 参るその日が御縁日
参りゃとにかく帰りの節は つけておくれよ青島へ
鵜戸さん良いとこ一度はおいで 一目千里の灘がある
行こか参ろか七坂越えて 鵜戸神社は結び神
鵜戸さん参りに結うたる髪も 馬にゆられてみだれ髪
音に名高い背平の峠 坂は七坂七曲り
「おちちあめ」
御本殿のある岩窟にある「おちちいわ」は豊玉姫が乳房をひききり岩にくっつけていかれたとされる伝説の岩で、滴り落ちる清水で作る「おちちあめ」を母乳がわりにして、御主祭神は育ったといわれている。